急がば走れ

急がば走れ

徒然なるままに興味のあることや日々の出来事を書きます。

イヤホンを外したら、読書中にアイデアが流れ込んできた

どうも、うぉーたんです。

今日、本を読んでいて変なことがありました。

イヤホンを外したら、集中が切れるどころか、逆にすっと読めたんです。

普通、逆じゃないですか。

最初はイヤホンをしていました。周りの音を消した方が集中できると思ってたんですよね。まあ、普通にそうですよね。

ところが途中でイヤホンを外しました。

人の気配もある。電車の音もある。街のざわざわも入ってくる。

読書には邪魔そう。

なのに、逆にすっと読めたんです。

なんでやねん。

いや待って、意味わからん。

電車の音も街のざわざわも聞こえてるのに、なんで今イヤホン外した方が読めてんの?

ノイキャン最高とか思ってた自分、何やったんマジで。

耳を塞いでいたときより、外の音が少し入っているときの方が、文章と自分の頭の間に変な余白ができた感じがありました。

読んでいたのは三宅香帆さんの本だった

そのとき読んでいたのは、三宅香帆さんの『「好き」を言語化する技術』でした。

「好き」を言語化する技術 推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない

「好き」を言語化する技術 推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない

この本を読みながら、自分は感想をかなり雑な言葉で片づけてるなと思いました。

「泣ける」

「考えさせられる」

「刺さる」

便利。便利すぎます。

でも、そこで止まると何も言っていないに近い。

泣けたなら、どの場面で泣けたのか。予想と何が違ったのか。自分の経験や価値観のどこに触れたのか。

そこまで見ないと、自分の言葉にならない。

ああ、これか、と思いました。

「自分の言葉」って、珍しい表現を発明することではなくて、自分の中で何が起きたのかをちゃんと見ることなんですね。

三宅香帆さんの伝え方、うまい

で、今日いちばん残ったのは、実は本の内容そのものより三宅香帆さんの伝え方でした。

三宅香帆さんの文章って、知識で上から殴ってこないんですよ。

「あなたの感想は浅いです」みたいな顔をしてこない。

本好きの友達の話を、コーヒーでも飲みながら頬杖ついて、ずーっと聞いている感じがあります。

この距離感がいいんですよね。

読者に「ちゃんとしろ」と詰めるのではなく、「そこからもう一段だけ見たら、自分の言葉になるよ」と横に座って言ってくれる感じがある。

強い。

正しさで殴られると身構えます。でも、こういう伝え方をされると、「あ、それなら自分でもできるかも」と思える。

これを言語化できたのが、自分の中ではけっこう大きかったです。

イヤホンを外していたから、そこまで考えたのかも

もしイヤホンをしたままだったら、たぶん「感想は具体化が大事。なるほど」で終わっていました。

それでも読書ではあります。

でも、周りの音が少し入っている中で読んでいたら、文章を読むだけじゃなくて、「これ、自分のブログにも関係あるな」と思えたんです。

自分の感想を雑に済ませないこと。

AIに整えてもらうときも、自分の声を薄めすぎないこと。

人の感想を見る前に、自分の最初の反応を残すこと。

そこまで考えたところで、「あ、これブログネタやん」となりました。

イヤホンを外しただけで?

そう。イヤホンを外しただけで。

いや、安いライフハックすぎる。

ローランドのスマホの話も、少しだけ思い出した

ここで、ローランドのスマホの中身を見せる動画の話も思い出しました。

www.youtube.com

スマホやインターネットを使う時間を、あらかじめ決めているという話でした。

それを見たときは、「ストイックやな」くらいに思っていました。

でも今日の読書のあとだと、ちょっと違って見えました。

ネットを見ない時間を作るのって、ただ我慢する話ではないのかもしれません。

他人の言葉が入ってくる前に、自分の最初の反応を置いておく時間。

そう考えると、ローランドの話も少し分かる気がしました。

感想を書く前にレビューを見る。SNSの反応を見る。考察記事を読む。

便利なんですけど、やりすぎると「あ、自分もそう思ってた気がする」になってしまう。

これ、めちゃくちゃある。

耳を空ける時間を残したい

別に、イヤホンをやめようという話ではありません。

音楽を聴きながら作業したい日もある。周りがうるさい場所ではイヤホンが必要なこともある。無音じゃないときつい日もある。

ただ、何も考えずに毎回すぐ耳を埋めなくてもいい。

読書中、作業中、散歩中、移動中。少しだけ耳を空ける。

周りの音が入ってくるままにしておく。

それだけで、考えがふっと動くことがあります。

いや、そんなことある?

あった。

なので、しばらくは意識して、何も流さない時間を残してみたいです。

案外そこに、自分の言葉とかブログネタが落ちているのかもしれません。

ほなまた。

このブログ、まだ走れそう

どうも、うぉーたんです。

珍しく2日連続の投稿です。どうしたんでしょうね。

最近また、「このブログどうしようかな」と考えていました。

新しくブログを作った方がいいのか。それとも、今の「急がば走れ」をそのまま続けた方がいいのか。

AI、音声日記、GitHub、生活ログ、転職活動、作品感想。最近書きたいことがけっこう増えてきたんですよね。そうなると、「これもう別ブログ作った方がいいんちゃうか?」みたいな気持ちも出てきます。

でも、改めて自分のブログを見返してみると、別に切り離さなくてもいい気がしてきました。

むしろ、「急がば走れ」というブログは、昔からずっと同じことをやっていたのかもしれません。

自分の生活を観察して、考えて、言葉にする。

昔はそれが、スマホとの付き合い方とか、時間の使い方とか、人とのつながりとか、作品の感想として出ていました。今はそこにAIと記録の仕組みが入ってきただけなのかもしれません。

新しく作らなくてもよさそう

今のところ、新しいブログは作らなくていいかなと思っています。

このまま「急がば走れ」で続けます。

昔の自分は、興味のあることや日々の出来事をけっこう雑に書いていました。ガジェット、アプリ、特撮、生活改善、ブログそのものへの悩み。並べるとだいぶ散らかっています。

でも、全部に共通していたのは、自分の生活を少しでも良くしたいとか、見えにくい気持ちを言葉にしたいとか、外との接点を作りたいとか、そういうことだった気がします。

今やっている音声日記やAI活用も、その延長線上にあります。

感想を文章にできないなら、まず音声で話してAIに整理してもらう。スマホに時間を食われるなら、生活ログを取って自分の行動を見えるようにする。外とのつながりが欲しいなら、自分の考えをブログに出して、そこから誰かとつながれる形を探す。

昔の悩みに対する、2026年版の返事みたいなものですね。

雑記ブログでいいかもしれない

専門ブログにした方が強い、という考え方はあります。

たしかに、「AI活用ブログ」「転職体験ブログ」「生活改善ブログ」みたいにテーマを絞れば、読者には伝わりやすいです。検索にも乗りやすいかもしれない。収益化を考えるなら、その方が分かりやすい面もあります。

でも、自分の場合、そこまで早く絞りすぎると大事なものを落としそうなんですよね。

自分が書きたいのは、AIの便利機能だけではありません。転職活動だけでもありません。スマホを減らしたい話、カフェで作業したい話、人間関係で考えたこと、作品に心を動かされたこと、日記をどう残すか、無職期間をどう過ごすか。

そういうものが全部つながって、自分の生活になっています。

だから、このブログの真ん中にはこういう感覚を置きたいです。

AIと記録を使って、自分の人生を実験する。

これなら、雑記であることを捨てなくていい。作品感想も、生活改善も、転職活動も、デジタル環境も、人との関わりも、全部置けます。

大事なのは、何でも書くことではなく、何を書いても「自分の生活を実験している」という中心に戻ってこられることだと思います。

AIブログにしすぎない

ここはけっこう大事だと思っています。

AIを使っているからといって、「ChatGPTの便利機能10選」みたいな記事ばかりに寄せると、このブログの良さは薄くなります。

もちろん便利な使い方を書くこと自体は悪くないです。でも、主語がツールになると、自分のブログである意味が弱くなります。AIの機能説明だけなら、もっと詳しい人も、もっと早いメディアもいくらでもあります。

このブログでやりたいのは、AIそのものを語ることではありません。

AIを生活に入れたら、自分の過ごし方や考え方がどう変わったのか。そこを書きたいです。

たとえば、予定をAIに組ませて一日を過ごしてみたらどうなるのか。日記をGitHubに貯め続けたら、AIが過去の自分をどう見つけてくれるのか。ベッドで一日を溶かしてしまう自分が、端末や環境を変えることでどこまで動けるようになるのか。メールや予定表をAIに見てもらうと、転職活動のしんどさはどれくらい減るのか。

そういう記事なら、AIの話でありながら、ちゃんと自分の話になります。

主語はAIではなく、Wootan本人でいいんですよね。

昔の記事もそのまま置いておく

過去記事を消す必要もないと思っています。

昔の記事には、今見ると荒いものもあります。テンションが若いものもあるし、今なら違う書き方をするものもある。

でも、それも含めて、このブログの前史です。

昔の自分は、スマホを減らそうとしていました。時間の使い方に悩んでいました。外とのつながりが欲しいと書いていました。自分の感想を文章にする難しさにもぶつかっていました。

そして今、音声日記とAIとGitHubを使って、その悩みを別の形で扱おうとしています。

これは後付けで無理に作った物語ではなく、たぶん本当に続いていた一本の線です。

「急がば走れ」というタイトルも、改めて見るとけっこう良いんですよ。

急がば回れ、ではなく、走れ。

いや、回れよという話ではあるんですが。

でも、ちょっと変で、前に進もうとしている感じがあります。生活を試して、失敗して、また直していくブログの名前としては、むしろ今の方が合っているのかもしれません。

サブタイトルを変えるなら、今はこれくらいがしっくりきます。

AIと記録を使って、自分の人生を実験する。

このへんから書いてみたい

続けるなら、まずは近いところから書いていきたいです。

予定をAIに組ませて一日を過ごしたらどうなるのか。日記をGitHubに貯め続けると、過去の自分をどれくらい探しやすくなるのか。スマホに時間を食われるなら、端末ごとに役割を決めることで少しは変わるのか。

転職活動をAIに支えてもらう話も書けそうですし、作品感想がただの趣味ではなく、自分の価値観の記録になっている話も書けそうです。

こう考えると、かなりブログ向きな気がします。

AIもある。生活改善もある。転職もある。作品感想もある。でも、全部の中心に「自分の生活を観察して、試して、言葉にする」がある。

急がば走れは、まだ使える

ブログを切る必要はなさそうです。

ただ、漫然と続けるだけだと少し弱い。

だから、これからも「急がば走れ」を使います。

昔の雑記ブログを捨てるのではなく、その上に今の関心を乗せる。AIと記録を使って、自分の生活を実験する。その過程を記事にしていく。

たぶん、自分がやりたいのは、きれいな専門ブログを作ることではありません。

日々の中で考えたことを残して、それをあとから見返して、少しずつ生活を変えていく。その過程を外に出すことです。

自分の人生を、観察して、記録して、試して、また書く。

その場所として、「急がば走れ」はまだかなり使えると思っています。

というわけで、またここで書いていきます。

ほなまた。

日記を書きたかったんじゃない。消えていく自分を残したかった

日記を書きたかったわけではなかった。

毎日を丁寧に記録したいとか、習慣として立派に続けたいとか、最初からそんな気持ちがあったわけではない。

ただ、自分の中に浮かんでは消えていくものが、ずっと惜しかった。

誰かと話して少し心が動いたこと。作品を見て、なぜか引っかかったこと。いいことを思いついた気がするのに、あとから思い出せないこと。その時は確かにつらかったのに、何がつらかったのか分からなくなってしまうこと。

そういうものが、日々の流れの中で泡のように消えていく。

音声日記を始めたのは、その泡を少しでも残しておきたかったからだと思う。

思ったことは、思った瞬間にしか存在しない

頭の中では、毎日いろいろなことが起きている。

仕事中にふと違和感が浮かぶ。誰かとの会話で少し救われる。特撮やアニメを見て、あるセリフや展開が妙に残る。歩いている途中に、記事にできそうな考えが出てくる。

でも、それをその場で残さないと、たいてい消えてしまう。

あとから思い出そうとしても、「何か大事なことを考えていた気がする」という輪郭だけが残って、中身は取り出せない。思いつきも、感情も、違和感も、言葉になる前に流れていく。

それがずっと歯がゆかった。

自分の中では確かに何かが起きていたはずなのに、それを後から確認できない。昨日の自分が何に反応して、何を大事だと思って、何に傷ついたのかが見えなくなる。

日記を付けていなかった頃の自分は、毎日少しずつ自分を取りこぼしていたのかもしれない。

たとえば、飲み会や食事の帰り道によくそうなる。

その場では楽しかったはずなのに、帰ってから振り返ると、楽しかったことだけが残るわけではない。もっと相手の話を聞けたんじゃないか、自分ばかり話していなかったか、あの一言は少し余計だったんじゃないか。そういう小さな引っかかりが、後からじわじわ出てくる。

でも、それをその日のうちに残さないと、翌日には「なんとなく反省している」くらいの薄い感覚になってしまう。何を直したかったのか、どこで嬉しかったのか、何に違和感を覚えたのかが曖昧になる。

音声日記を付けるようになってからは、その曖昧になる前の状態を少しだけ保存できるようになった。まだ熱を持っているうちに話すことで、自分が何に反応していたのかを後から見返せる。

書くより、話す方が捕まえやすかった

紙の日記や普通のメモも、もちろん良い方法だと思う。

ただ、自分の場合、最初からきれいな文章にしようとすると手が止まりやすい。何を書けばいいのか、どこまで整理すればいいのか、これは残すほどのことなのか。そう考えているうちに、書く前の熱が冷めてしまう。

その点、音声日記は雑に始められる。

うまくまとまっていなくても、とりあえず話せる。順番がぐちゃぐちゃでも、あとから整えればいい。感情がまだ言葉になりきっていなくても、声に出しているうちに少しずつ形が見えてくる。

AIを使えば、声に出した断片を読み返せる文章に整えることもできる。

自分にとって音声日記は、「ちゃんと書く」ためのものではなく、「消える前に捕まえる」ためのものだった。

音声日記を始めた頃も、最初からうまくいっていたわけではない。

AIの音声入力を使ってみると、こちらの思考の間を待たずに送信されてしまうことがあった。少し考えているだけなのに、そこで区切られる。人間の独り言はそんなに整っていない。話しながら考え、止まり、また言葉を探す。その揺れごと受け止めてほしいのに、ツール側のテンポが先に進んでしまう。

それでも、キーボードに向かって最初から文章を書くよりは、声に出す方が自分には合っていた。

きれいな文章にするのは後でいい。まずは、今日の自分が何を抱えていたのかを逃がさない。その順番に変えたことで、日記は少し続けやすくなった。

一番残してよかったのは、人との関係だった

音声日記を続けて、一番残しておいてよかったと思うのは、人との会話や関係性だった。

誰と何を話したか。その時、自分は何を嬉しいと思ったのか。逆に、どこに引っかかったのか。

そういうものは、記録しなければすぐに薄れてしまう。

でも、あとから読み返すと、「自分はこの人を大事に思っていたんだ」とか、「この時の違和感は、今にもつながっているな」と分かることがある。

人間関係は、出来事だけでは残らない。

何を言われたかだけではなく、自分がどう受け取ったのか。何をありがたいと思ったのか。どこで少し傷ついたのか。そこまで残しておかないと、自分にとってその関係がどんな意味を持っていたのかが分からなくなる。

音声日記は、その時の反応を残してくれる。

それは単なる記録ではなく、自分が誰を大切にしていて、どんな距離感を望んでいて、何に安心する人間なのかを確認する手がかりになっている。

ある日、友人に自分のAI活用の流れを話したことがある。

GitHubに日記を置いて、音声入力で話した内容をAIに整えてもらい、決まった形式で残していく。自分にとっては日々試している普通のやり方だったけれど、人に説明してみると、意外とちゃんとした流れになっていることに気づいた。

その場では、ただ「こうやると便利だよ」と話していただけだった。でも日記に残して読み返すと、自分は知っていることを出し惜しみせず渡せたことが嬉しかったのだと分かる。誰かの困りごとに、自分の工夫が少し役に立つ。その感覚がちゃんと残った。

もし記録していなければ、「友人とAIの話をした日」くらいで終わっていたと思う。でも実際には、その日には「自分の中で育ててきたやり方を、人に説明できた」という意味があった。

作品への反応も、自分を知る材料になる

作品の感想も、残しておいてよかったものの一つだ。

特撮やアニメ、TRPGに触れていると、ただ「面白かった」だけでは終わらない瞬間がある。

あるキャラクターの弱さに、自分でも驚くほど気持ちを持っていかれる。変身や決断の場面で妙に胸が熱くなる。シナリオを作って、人が想像以上の反応を返してくれることが楽しい。

そういう反応を残しておくと、あとから見返したときに、自分が何に心を動かされる人間なのかが少しずつ見えてくる。

自分は、弱さをなかったことにする話よりも、弱さを抱えて前に進む話が好きなのかもしれない。誰かが安心して動ける場を作ることに惹かれているのかもしれない。ぐちゃっとしたものを、少しでも前に進める形に直すことが好きなのかもしれない。

作品の感想は、ただの趣味の記録ではない。

自分が何を大事にしているのか、どこで心が動いたのかを残す記録でもある。

以前、あるアニメを見終えたあと、ただ「面白かった」では終わらず、なぜこんなに心に残ったのかを日記に書いたことがある。

そこでは、ちゃんとやろうとする人ほど苦しくなっていく感じに強く反応していた。見た瞬間は作品への感想だったものが、書いていくうちに、自分自身のしんどさや大事にしたいこととつながっていることが見えてきた。

さらに面白かったのは、その感想がTRPGのシナリオ案に変わっていったことだ。

作品を見て、心が動く。なぜ動いたのかを言葉にする。そこから、自分ならどういう話にできるかを考える。日記がなければ、たぶん「面白かった」で終わっていた。けれど記録したことで、感想は次に作るもののきっかけになった。

日記は、出来事ではなく反応を残す場所だった

音声日記を続けて分かったのは、自分が残したかったのは出来事そのものではなかったということだ。

今日は何をした。どこへ行った。誰と会った。それも大事ではある。

でも、本当に残したかったのは、その出来事の中で自分がどう動いたのかだった。

何に嬉しくなったのか。何に引っかかったのか。何を言葉にできないまま抱えていたのか。誰との会話が、なぜ心に残ったのか。

そういう反応は、その場では小さすぎて見逃しやすい。

けれど、積み重なると地図になる。

自分がどんなものに安心するのか。どんな言葉に傷つくのか。どんな物語に惹かれるのか。どんな場を作りたいのか。

日記は、それをあとから見つけるための場所だった。

後から見つかる、という意味では、ガジェットの小さなメモにも助けられたことがある。

スマホの共有機能について調べた日があった。その時は、ただ新機能が来たから設定方法を残しておいた、くらいの感覚だった。

それからしばらく経って、友人たちと写真を撮って共有する場面があった。自分は大人数で自撮りすることにも、写真をその場で共有する流れにもあまり慣れていなかった。少し戸惑いながらも、以前調べて日記に残していた共有機能の知識を思い出して、会話に入ることができた。

その時、日記は過去の自分からの引き出しみたいなものだと思った。

書いた当時はただのメモでも、時間が経ってから生活の中で役に立つことがある。しかも、役に立つのは情報だけではない。「自分はあの時、これに興味を持って調べていた」という事実も一緒に戻ってくる。

書いたものが、外に出て反応をもらうこともある

日記を続けていると、ときどき「これは外に出してもいいかもしれない」と思う文章が出てくる。

以前、休日の過ごし方について考えたことを、少し形を変えて匿名の場所に投稿したことがある。

大きな趣味を見つけるよりも、ちょっと気になったことを残し、一つ試し、感想を書く。その循環があると、ただ時間を潰しただけではなく、自分の生活が少しずつ蓄積されていく感じがする。そんな内容だった。

すると、その考え方に反応してくれた人がいた。

もちろん、大きな反響ではない。けれど、自分の日記から出てきた言葉が、誰かの中で一瞬止まった。そのことがかなり嬉しかった。

この経験で、日記は自分だけの保管庫であると同時に、外へ出す前に言葉を寝かせる場所でもあるのだと思った。毎日の記録が、そのまま記事になるわけではない。でも、何度も出てくる違和感や、妙に残る言葉や、誰かに話したくなる発見は、時間を置くと一つのテーマになっている。

これからは、残したものを使える形にしたい

現時点では、音声日記を残すこと自体に助けられている段階だと思う。

でも、これからは残したものをもっと使える形にしていきたい。

過去の日記から、ブログにできるテーマを見つけたい。モヤモヤしたときに、過去の似た経験や、その時にどう考えたかを引き出したい。週に一度、自分が今どこにいるのかを見返せるようにしたい。

たぶん、自分にとってAI音声日記は、効率化ツールというより、自分の内側を失わないための仕組みだ。

日々の中で消えていく感情、会話、作品への反応、違和感。

それらを残して、あとから意味を見つけられる形にする。

そして、そこからブログやエッセイを書いて、自分が何に心を動かされ、何を大切にして生きてきたのかを、少しずつ地図にしていく。

日記を書きたかったんじゃない。

消えていく自分を、残したかったのだと思う。

言語化と思考の整理、そして他者との対話

最近、日々の出来事や考えたことを振り返る中で、いくつかの共通点に気づきました。

それは「言語化することの大切さ」と「他者との対話を通じた理解の深まり」、そして「音声入力とAIを活用した思考の整理」という3つのテーマです。

今回は、これらのテーマについて、最近の体験を元に書いてみたいと思います。

言語化されることで整う感覚

ある本を読んでいて感じたのは、語りかけるような独特の読み心地でした。いわゆる"綺麗な語り口"というより、こちらに寄り添いながら話しかけてくれているような感覚が強いんですよね。「あ、そうなんだ」と自然にうなずきながら読めるような距離感があります。

これまで書評系の本は、一方的に「これはこういうものだ」と押しつけるトーンが主流なのかなと思っていました。でも、この本はそうではなく、「こっちのほうが良いですよね?」と提案するスタイルで、一緒に考えながらおすすめしてくれるような雰囲気があります。読者に寄り添っている感じがとても心地よく、そこが本書の大きな魅力だと感じました。

この体験から感じたのは、言語化されることで、曖昧だった思いが整っていく感覚です。

例えば、ドラマの最終回を見たとき、自分の中にあった曖昧な思いを、外部の考察動画で言語化されてもらったときの感覚。まるでサウナに行って整うんだよと言われてもピンとこず、実際にサウナに行ってみて体験し、じんわりと体に暖かさが戻っていく感覚(血管が広がっている?)を知ることができる感覚に似ていると感じました。

自分ではうまく言葉にできないけれど、誰かが言語化してくれることで、「そうそう、これこれ!」という感覚が得られる。この体験は、思考を整理する上でとても重要なものだと感じています。

共感レイヤーと事実レイヤーを分ける

最近、後輩から「仕事が多すぎてやばい」「タスクが多すぎてしんどい」という話を聞きました。そのとき、自分は「頼られるうちが花やで」という言葉をかけました。励ましや意味づけのつもりだったのですが、あとから振り返ると、それが本当に適切だったのか疑問が残りました。

「大変だ」という気持ちに対して、「そうやけど頑張ろう」という言葉は、辛さに無理やり蓋をしているだけで、根本的な解決にはなっていないのではないか。自分で言っておきながら、もう少し別の、うまい言い回しがあったのではないかと思いました。

そこで思い出したのが、「共感のレイヤー」と「事実のレイヤーを分けて話す」という考え方です。この考え方は、コミュニケーションにおいてとても重要だと感じています。

相手の気持ちに共感することと、事実を整理して伝えることは、別のレイヤーとして扱う必要がある。まずは共感を示し、その上で事実を整理して伝えることで、より適切なコミュニケーションができるのではないかと思います。

この経験から、言葉をかけるときは、共感と事実を分けて考えることの大切さを学びました。

音声入力とAIアウトプットの相性

今回あらためて、音声入力とAIによる推敲・アウトプットの相性はかなり高いと感じました。思いついたことを一度ダラダラと話し、あとからAIで整理・分類するやり方は、自分にとってとても自然です。

2年ほど前の記事ですが、「骨しゃぶり」というブロガーの記事が強く印象に残っていて、その手法が参考になっています。すべてを真似ることはできないにしても、自分の環境で可能な限り近づける方法を試してみたいと思いました。

音声で思考を吐き出す工程と、AIで整える工程を分けることで、考えること自体のハードルが下がります。この感覚は、今後もう少し意識的に活用していきたいです。

特に、ブログの感想を書くときなど、まずは音声でダラダラと話して、それをAIで整理してもらうという流れは、思考の整理にとても有効だと感じています。

例えば、特撮作品を見たときの感想も、まずは音声で「かっこよかった」「わかったようでわからない状態が続いている」などと話して、それをAIで整理してもらうことで、より構造化された文章にすることができます。

他者との対話を通じた理解の深まり

友人と過ごした時間の中で、印象的だったのは、ルービックキューブを教わったときのことです。どんな状態であろうと素直に教えを請い、成長に貪欲に取り組む姿は見習うべきところであるし、そういう部分がその人の良さに繋がっているのだと思いました。

また、ドラマや特撮作品の考察についても、外部の考察を読むことで理解というか観点について補強してもらっている部分があります。自分一人では気づけない視点を、他者との対話や考察を通じて得られることは、思考を深める上でとても重要です。

この体験から感じたのは、他者との対話や交流を通じて、自分の理解が深まっていく感覚です。一人で考えているだけでは気づけない視点を、他者との対話を通じて得られる。これは、思考を深める上でとても重要な要素だと思います。

30歳の目標として

自身が30歳になったとき、30歳の目標をなにか一つでも持ってみたいと思いました。結局感想を垂れ流して話すのが好きなのだろうと思うので、はてなブログで感想を書くということをやってみたいと思います。

少しは以前も反応があったので、面白いというか読者のいる文章を書くことはできるのではないかと感じます。はじめから他者を意識しすぎるのはあまり良くないかもしれませんが、自分の体験や感想を言語化して、他者と共有することは、思考を整理する上でも、他者との対話を生み出す上でも、とても意味があることだと思います。

まとめ

最近の体験を通じて感じたのは、以下の3つのテーマです:

  • 言語化されることで整う感覚:曖昧だった思いが、誰かが言語化してくれることで整っていく
  • 共感レイヤーと事実レイヤーを分ける:コミュニケーションにおいて、共感と事実を分けて考えることの大切さ
  • 音声入力とAIアウトプットの相性:音声で思考を吐き出し、AIで整理するという流れの有効性

これらのテーマは、思考を整理し、他者との対話を深める上で、とても重要な要素だと思います。今後も、これらのテーマを意識しながら、日々の体験を言語化し、思考を整理していきたいです。

みなさんも、音声入力とAIを活用して、思考を整理してみてはいかがでしょうか?きっと、思考の整理が楽になると思います。

ほな、また!

自分の思いを文章にする難しさ

自分はブログを『読む』ことはとても好きだ。

興味のあるジャンル(ゲーム・アニメ・特撮等)はもちろん適当にはてなブログをザッピングすると出てくる記事を読むことで知らないことを知るきっかけになったりする。

 

自分は『感想』を人に話すことが好きだ。

趣味の合う友人と何時間も感想を言い合ったり、日々あったことを面白おかしく話してみたり。

そこに正誤は関係なくただ感じたことを思いのままに語ることの楽しさを感じる。

 

やがてこの自分の『感想』をブログに書いてみようと思い立った。

友人に話すように楽しく自分の思いを世界中の人に伝えてみたいと思うようになった。

だけれどもこれが難しい。

どんな風に書いてみても話しているときの勢いというか思いというか熱さみたいなものを乗せることができていないような気がする。

 

だけれども、この『好き』という感情を大切に下手でもなんでも書き続けて行きたいと思う。

【アマゾンプライムビデオ】アップロード ~デジタルなあの世へようこそ~が面白すぎた

みなさんこのコロナ禍のなかどのようにお過ごしでしょうか。

全然関係ないけど、コロナ禍って「コロナか」って読むんですね、コロナうずだと思ってました。。。

なにか暇つぶしになるような面白い作品はないかと思ってアマプラをブラブラしていたところ、面白い作品を見つけたので紹介します。

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また今日からオナ禁とスマ減はじめます

 また、と書いたのは2度めの挑戦だからです。

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1度目の挑戦

オナ禁に関しては3日続いては断念して・・・というのを繰り返していたような気がします。

スマ減(スマホの時間を減らす)については、7時間位触っていたところを1時間程度に減らすというのを1週間続けましたが断念しました。

なぜ続かなかったのか?

これに関しては諸説ありなんでなんとも言い難いところだけれども、今考えてパッと思いつくのはこんな感じ。

オナ禁

・明確な目標がなかった

オナ禁を通じて何をしたいとかこういうことができるようになりたいとかいう目標がまったくなかった。目指すものがないわけだからそりゃかんたんに辞めちゃうよねって話ですね。

・制限をかけていなかった

→「しない」ために何かを控えるということができていなかった。そういう動画サイトにアクセスしないとか。意思の力だけでなんとかできたら苦労しない。

 

スマ減

・傾向を知らなかった

→どのアプリにどれくらいの時間を取られているから、段階的に減らしていく。というような傾向を一切調べていなかった、

 

今回続けるために

・明確な目標がなかった

【改善】

目標:活動時間を伸ばす。伸ばした時間でブログや読書など自分への投資を行う。

目標:コミュ障脱却

→とくに人見知りや異性との会話が極端にできないため改善したい。直接的なメリットはないかも知れないが、何かのきっかけになれば。

 

・制限をかけていなかった

【改善】

動画サイトへのアクセスをなくす

→ブックマークから削除しました。これだけでどれほどの抑止力となるかは不明ですがやらないよりマシだと思う。

→スマ減

アクセス方法は大体スマホだったので、そもそもスマホの時間を減らせばどうだろう。

一石二鳥。

 

・傾向を知らなかった

 →スマホに搭載されているデジタルウェービング機能を使って時間を把握。

使っているのはChromeYoutube・MXplayerということだったので、やはりネットと動画に時間を取られているんだなあという印象。

 

今後

禁止・減らした事によってなにか変化したことがあればこの場で報告できたらと思います。